柿内賢信記念賞選考委員会
委員長 内田 麻理香
委員 神里 達博・呉羽 真・坂田 文彦・水島 希・八代 嘉美・渡部 麻衣子(五十音順)
【選考結果】
特別賞 70万円
中島 秀人 東京工業大学・名誉教授
「日本における科学技術社会論の導入と制度化・普及への貢献」
奨励賞 49万円
多久和 理実 東京科学大学・リベラルアーツ研究教育院・講師
「1930-40 年代に日本の大学で工学系分野を学んだ女性たちの実態の解明」
実践賞 30万円
小松原 康弘 富山大学大学院理工学研究科先進工学プログラム・博士後期課程
「被災地の社会課題解決に資する科学技術の活用に関する実証的研究」
【選考を振り返って】
2025年の世界では、科学を含む専門知が、かつてない試練にさらされています。米国では第2次トランプ政権が発足し、専門知を支える制度そのものが揺さぶられています。日本でも、歴史修正主義的な主張を掲げる政治勢力が支持を広げるなど、専門知と社会の関係が変質しつつあります。気候変動、感染症、AIなど多様で複雑な課題が交錯するこの時代に、科学技術社会論の知見と実践は、かつてない重みをもって問われています。
本年度の審査委員会では、柿内賢信記念賞の精神に鑑み、こうした時代の課題に応答しうる科学技術社会論の研究と実践を評価することを目指して審査を行いました。審査体制は、コロナ禍を契機に導入された公募・審査の完全オンライン化を継続し、広報においても前年度に引き続き、各種学協会のメーリングリストや個別のSNS等を活用することで周知範囲の拡大を図りました。広報に協力してくださった皆さま、周りの方に応募を呼び掛けてくださった皆さま、そして応募してくださった皆さまに深くお礼申し上げます。
今年度は、特別賞2件、奨励賞12件、実践賞5件の推薦と応募をいただきました。それらについて、本記念賞の趣旨に照らし合わせて厳正かつ真摯な審査を行い、特別賞1件、奨励賞1件、実践賞1件を決定いたしました。
特別賞に選出された中島氏は、日本における科学技術社会論の導入と制度化・普及に長年にわたり中心的役割を果たし、学術的研究、学会設立への貢献、教育・啓発活動のいずれにおいても先駆的な成果を挙げ、分野の確立と発展に大きく寄与した点が高く評価されました。奨励賞は戦前から戦後にかけて、制度的な制約下で工学を学んだ女性たちの実態を掘り起こし、科学技術とジェンダーの関係史に新たな視点を提示した多久和氏、実践賞は被災地での経験をもとに、災害エスノグラフィーの手法で科学技術活用の課題を検討し、現場に根ざした実践を行った小松原氏が、それぞれ選出されました。
なお、近年は科学とジェンダーの歴史に関するテーマを扱った研究の受賞が続いていることについて若干、補足いたします。ジェンダーの問題は、女性のみならず、制度的に排除されてきた様々な属性の人々に共通する構造的課題を照らし出すものでもあります。排外主義的な言説が目立つ昨今において、誰もが知の営みに参加できる社会を考えるこうした研究・実践の意義は、むしろ一層大きなものとなっています。審議の場では、こうしたテーマの重要性については審査委員間で共通の認識が得られました。一方で、科学とジェンダーを扱った歴史研究に受賞が集中していることの妥当性について、一部の委員から疑問も出されました。そこで、選考プロセスを改めて検討した結果、今回の受賞はいずれも各審査委員の評価点という客観的な基準に基づくものであり、問題はないとの結論に至りました。
残念ながら、今回は授賞の対象とはならなかった研究や実践の提案の中にも、科学・技術と社会の関係を考えるうえで示唆に富むものが多く見られました。次の機会にさらに深化した成果として再びお目にかかれることを期待し、今後も多くの方々からの積極的なご提案を心よりお待ちしております。
【選評】
特別賞
中島 秀人「⽇本における科学技術社会論の導⼊と制度化・普及への貢献」
中島秀人氏(1956年生、東京工業大学名誉教授)は、科学技術社会論(STS)の日本への導入、学術的深化、そしてその制度化と普及において、長年にわたり中心的な役割を果たしてきました。その功績は、以下の三つの観点から高く評価されます。
1.科学史アプローチによる科学技術社会論の日本への導入と学術的貢献
中島氏は、1980年代初頭の大学院生時代にニュートン研究を端緒として科学史・科学論の研究を進め、科学と社会・哲学の関係に切り込む独自の学問的立場を確立しました。博士論文をもとにした『ロバート・フック──ニュートンに消された男』(朝日新聞社、1996)は第24回大佛次郎賞を、『日本の科学/技術はどこへいくのか』(岩波書店、2006)は第28回サントリー学芸賞を受賞するなど、社会的にも高く評価されています。これらの研究は、科学知識の社会学(SSK)の潮流を批判的に踏まえつつ、科学技術史を基盤に科学と社会の関係を探求するものであり、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、非欧米圏としてはきわめて早い段階でSTSを日本に紹介・定着させました。さらに近年も、『科学者マイケル・ポランニー──暗黙知の次元を超えて』(河出書房新社、2023)を著すなど、科学技術社会論を思想史的視座から再検討する研究を継続しており、現在に至るまで分野の理論的深化に寄与しています。
2.日本におけるSTSのネットワーク化への貢献
1988年に東京大学先端科学技術研究センターの助手に着任した中島氏は、当時国際的にも新興であったSTSの知見を日本に導入し、小林傳司氏・杉山滋郎氏らとともに、1990年にSTS Network Japanを設立しました。シンポジウムや「夏の学校」などを通じて研究者・実践者の交流を活発化させ、STSという新たな研究領域を社会的に認知させる基盤を築きました。さらに1998年には、日本で初めての国際的なSTS会議「科学技術と社会に関する国際会議(International Conference on Science, Technology and Society)」を開催し(組織委員長:村上陽一郎、実行委員長:小林信一、プログラム委員長:中島秀人)、日本STS学会(2001年設立)へとつながる流れを生み出しました。その後はSTS学会の第4代会長(2009年〜2013年)として学会運営に尽力し、日本におけるSTSコミュニティの拡大と持続的発展に大きく貢献しました。
3.科学技術社会論の普及への貢献
中島氏は、学術的研究や学会活動にとどまらず、科学技術社会論の普及と教育にも尽力してきました。放送大学の教科書や工学部向けテキスト、『岩波講座 現代』などの教材執筆を通じて後進育成に寄与するとともに、一般読者に向けた著作を通して科学と社会の関係を広く伝えてきました。大佛次郎賞、サントリー学芸賞などの受賞作はいずれも専門領域を超えて社会に広く読まれ、科学技術社会論の意義を普及させる役割を果たしています。
これらの長年にわたる学術的・組織的・普及的貢献により、中島秀人氏は、日本における科学技術社会論の形成と発展を牽引した中心的人物の一人として位置づけられます。その功績は、学問領域の確立と社会的普及の両面において顕著であり、柿内賢信記念賞特別賞にふさわしいものとして高く評価されました。
奨励賞
多久和 理実「1930〜40年代に⽇本の⼤学で⼯学を学んだ⼥性たちの実態解明による科学技術社会論への貢献」
多久和理実氏は、戦前から戦後にかけて日本の大学で工学を学んだ女性たちの実態を明らかにし、科学技術とジェンダーの関係史に新たな視点を提示しています。女性が工学部に本科生として入学できなかった時代に、どのような制度を活用して学び、大学を離れたのちにどのような道を歩んだのかを、史料調査と親族への聞き取りを通して丁寧に検討しています。
旧制大学における委託生や聴講生、外国学生など多様な在籍形態に注目し、制度的制約の中で女性たちが工学を学んだ具体像を明らかにする点に独自性があります。また、科学技術社会論学会でオーガナイズド・セッションを重ね、歴史資料の保存・公開をめぐる課題を共有してきた取り組みも意義深いものです。
一方で、科学史研究をどのようにSTS的な問題関心へと接続するかには、今後さらに明確な展開が期待されます。地道な史料調査を基盤に、科学技術社会論の新たな展開を切り開く研究として、今後の成果が強く期待されます。
実践賞
⼩松原 康弘「被災地の社会課題解決に資する科学技術活⽤の実践」
小松原康弘氏は、災害現場での経験をもとに、災害エスノグラフィーの手法を用いて被災地における科学技術活用の実態を調査し、その課題を明らかにしようとする取り組みを続けています。現場の行政や地域関係者との対話を重ねながら課題を抽出する姿勢は、実践者として高く評価されます。
一方で、科学技術の導入を被災地課題の単純な解決策として捉えるのではなく、技術の活用を妨げる社会的・制度的条件や、現場の制約を含めて検討する視点が求められます。安易な技術的解決を超え、科学技術と社会との関係性をとらえるSTS的視点を取り入れることで、本実践はさらに意義を深めるものとなるでしょう。
被災地での経験を通じて、科学技術の可能性と限界の双方を見据えようとする小松原氏の取り組みは、科学技術社会論の実践として大きな意味をもちます。今後の展開に期待が寄せられ、柿内賢信記念賞実践賞にふさわしいものとして評価されました。