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投稿日 2013年11月1日

2013年度 科学技術社会論・柿内賢信記念賞選考結果について

柿内記念賞選考委員会

【選考結果】

優秀賞 50万円

  • 京都大学文学部准教授 伊勢田哲治(いせだ てつじ)    
    「科学技術社会論への倫理的クリティカルシンキングの導入」

奨励賞 35万円

  • 東京大学教養部非常勤講師 額賀 淑郎(ぬかが よしお)
    「重なり合う合意の事例研究」

奨励賞 30万円

  • 金沢工業大学 准教授    夏目 賢一(なつめけんいち)   
    「日本における技術者倫理導入の歴史的研究」

実践賞 35万円

  • 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授 八木絵香 (やぎ えこう)   
    「ポスト3・11の科学技術と社会」

【選考を振り返って】

応募総数は13点で、内訳は優秀賞2点、奨励賞9点、実践賞2点でした。研究計画に厳密な積算が求められているわけではありませんし、成果についても本賞が取り立てて煩瑣な報告を求めているわけではありませんので、もっと多くの応募があってしかるべきなのにといった全般的な印象がありました。それというのも、本賞が「科学・技術と社会の問題」に関する研究者・実践的活動者を対象とすることが謳われていながら、理工系の実験研究の方法論だけで完結している応募テーマとか、社会との問題が明確でない人文社会学系の研究テーマが少なからずあったからです。しかし、多くはない応募者の中からでしたが、賞に相応しく優れた研究計画を選考できたことを大変喜ばしく思います。

あらかじめ採点の基準を決め全般的な議論をした上で、各賞について選考委員が独立個別に順位をつけて持ち寄りました。さらに奨励賞の次点については、各賞の次点とも引き比べた上で決定しました。これは、募集要項に「希望する部門を選択して応募してください。なお、選考委員会の判断によって、内容に応じて審査部門を変更することがあります」という文言があることを受け、優秀賞に応募していても、奨励賞としても十分受賞するに値するとなれば審査部門の変更がありうるからです。基本的には応募者の申請部門を尊重しておりますが、選考の公正さから外れない限り審査部門の変更を念頭に置いて選考に臨みました。

優秀賞と実践賞については選考委員の間で大きな意見の食い違いはありませんでしたが、奨励賞はやや意見が分かれる点もありました。しかし総意として1位、2位が明確に決まり大きな混乱はありませんでした。先にも述べましたように、各賞横断的に見ても、受賞は妥当なものとして委員の意見は一致いたしました。

【選評】

【優秀賞】
伊勢田哲治「科学技術社会論への倫理的クリティカルシンキングの導入」

哲学的倫理学の知見を系統的に科学技術社会論の文脈に適用することを目的とする本課題は、独創性があり優秀賞にふさわしいと判断しました。伊勢田氏は、科学技術をめぐる対立において、行為の善し悪しの判断には、帰結主義、義務論、徳倫理学の3つの立場の違いが作用している可能性があると述べ、これまで他領域に適用されてこなかった倫理学的議論を科学技術社会論に応用するという試みを提案されました。遺伝子組換え作物、地球温暖化の問題、原発事故の事後処理をめぐる問題など、これまで科学技術社会論の研究者によって取り組まれてきた事例を、さまざまな倫理学上の立場から見直すという取り組みは、科学技術社会論における理論研究の今後を考えるにあたって重要な貢献をなすものと思われます。

伊勢田氏は、倫理学的思考を科学技術社会論に応用するという試みを「倫理的クリティカルシンキング」と呼び、近年これを主題とした著書も出版されております。こうした研究成果を踏まえ、本課題を遂行するための計画と見通しが十分に整っているという判断し、優秀賞の受賞にいたりました。科学技術社会論研究の新たな地平を切り開いていただくことを期待しております。

【奨励賞】
額賀淑郎「重なり合う合意の事例研究 - 生命倫理委員会の歴史」 

この研究計画は、額賀氏の先行研究『生命倫理委員会の合意形成-日米比較研究』(勁草書房,2009)の成果の上に新たに企画された研究プロジェクトの一部をなすものです。額賀氏は、先行研究で合意形成の4類型(完全合意モデル、重なり合う合意モデル、妥協モデル、多数決原理モデル)に基づき、生命倫理の合意形成過程の比較研究を行っています。その成果からこの研究計画では、米国の生命倫理委員会における人文科学者、社会科学者、自然科学者らの有識者が生命科学の倫理問題について提言を取りまとめた過程を重なり合う合意モデルの事例とし、その視点から当事者へのインタビューを含む詳細な研究を計画されています。ジョン・ロールズの「重なり合う合意」では、世界観の異なる多様な専門家や市民が合意し、その原則は長期間安定的に共有されています。その合意形成過程の詳細な事例研究は、専門家と非専門家が構成する社会での科学技術と社会の界面の問題を扱う科学技術社会論においても重要であることは言うまでもありません。また、額賀氏の研究実績及び研究の継続性からも、その成果が大いに期待し得るものと評価しました。

【奨励賞】
夏目賢一 「日本における技術者倫理導入の歴史研究」  

夏目氏は、技術・工学に関連する「倫理」が日本でどのように問題化され、あるいは問題化されぬままであったのかに関心をもち研究を進めてきており、本研究ではとくに1990年代後半において我が国で「技術者倫理」の導入が進んだ要因を探ろうとしています。科学史研究者である氏は、「技術者倫理」導入の経緯を歴史的に調査・分析する手法でテーマに迫ろうとしています。こうした歴史的実証的な技術・工学倫理研究の必要を、氏が痛切に意識することになったのは、ほかならぬ福島第一原発事故でした。これ程の事態に直面しても、技術者倫理の真の問題は語られぬままであることに対して、科学技術史を専門とし技術倫理研究も担う中堅である夏目氏は、この問題に取り組むことこそ自分に課せられた義務と認識するに至ったとしています。人文社会系の研究と工学系の研究の2つの研究系統を科学技術社会論の立場から包括的な研究へとまとめあげようとする氏の意欲は並々ならぬものがあり、調査研究の費用を助成することによって、研究の完成を期待いたします。

【実践賞】
八木絵香 「ポスト3・11の科学技術と社会」  

東日本大震災以降の科学技術と社会のあり方についての幅広い着実な論考をまとめた『ポスト3・11の科学技術社会論』は、もともと単発的な企画として終わらないことが望まれる書であり、関係者もその見通しのもと着実な活動を積み重ねてきておられます。八木氏の研究計画はその活動を踏まえ、同書の継続企画を適切かつ着実な形で設計したものです。

同企画の特色は、関係者が個別のテーマへの分析を深める「研究」的な側面に留まらず、公開の討論会を開催し多様な参加者と対話していくという「活動」の側面を重視していることにあります。いわばアカデミックな研究助成金が対象とするテーマと社会的活動との中間的な企画であり、既存の助成の枠にはまりづらい側面があると思われます。しかし直接公共空間に対話の場を開き、科学技術と社会の関係を正面から問い直そうとする新しい形の試みであり、本基金実践賞の趣旨には充分合致しています。ゆえに実践賞部門の採択といたしました。

受賞者 研究計画要旨

優秀賞

伊勢田哲治「科学技術社会論への倫理的クリティカルシンキングの導入」

本研究は、哲学的倫理学の知見が科学技術社会論に、具体的には科学技術をめぐる意思決定のための論争に対して、どのように貢献できるかを考えることを目的とする。本研究では、倫理学の知見のうち、そうした形で応用できる部分を倫理的クリティカルシンキングと呼ぶことにするが、その言葉を用いるなら、科学技術社会論における倫理的クリティカルシンキングの可能性を模索するのが本研究である。

哲学的倫理学はさまざまな規範理論を開発してきた。その主なものは、帰結主義(結果のみによって行為の善し悪しを判断する立場)、義務論(行為が義務にかなっているかどうかに注目する立場)、徳倫理学(行為ではなく行為者の持つ徳を判断の対象にする立場)の三つに分類される。これらの倫理学理論は決して哲学者が恣意的に作り上げたものではなく、われわれの持つ倫理観のある部分を明確化したものだと考えることができる。そうであるならば、科学技術をめぐる対立においても、こうした倫理観の違いは作用している可能性がある。しかし、倫理学で論じられてきた他の話題については、いまだ倫理学とその周辺領域に適用が限られている。本研究では、哲学的倫理学の含意を系統的に科学技術社会論の文脈に適用し、双方の領域の拡充をはかる。

科学技術社会論への応用が見込める倫理学的議論として、例えば副次効果や行為者相対性をめぐる議論がある。ある問題についての立場の違いがこうした問題についての異なる立場に由来するものであることが一旦理解されたなら、その理解をベースとしてより実り多い対話が可能となるはずである。これこそが科学技術の関わる問題についてクリティカルシンキングを行うことの目的でもあり、本研究を「倫理的クリティカルシンキング」と呼ぶ理由ともなっている。

具体的な研究計画としては、文献研究と、講演者を招いた研究会を開催することで研究をすすめたい。

奨励賞

額賀淑郎「重なり合う合意の事例研究――生命倫理委員会の歴史」

本研究は、政治哲学者ジョン・ロールズの「重なり合う合意」という分析モデルを検証するため、米国の生命倫理委員会の事例研究を行うことを目指す。

ロールズは後期の研究において「重なり合う合意」に基づいた正義構想を論じた。「重なり合う合意」とは、立憲民主社会において自由で平等な市民の多様な世界観が、各々の視点に基づく倫理原則として一致し、その結果、世代を超えた長期の正義構想が可能になることを意味する。重なり合う合意は、倫理学の仮説モデルであるが、科学技術社会論において、その具体例を検証した研究は少ない。重なり合う合意は、ホッブズの秩序問題に対する一つの解決法を示すため、その事例分析は極めて重要である。特に、重なり合う合意の分析は、科学技術社会論が論じる「研究者と民主主義」の研究に貢献できるだろう。

本研究は、重なり合う合意の事例研究として、米国の生命倫理委員会における研究倫理の課題を分析対象とする。米国の生命倫理委員会は、連邦諮問委員会法に基づく諮問委員会をさし、人文科学者、社会科学者、自然科学者らが生命科学の倫理問題を論じ提言をまとめている。その代表例として、1974年の国家委員会や1980年の大統領委員会を挙げることができる。これまで、生命倫理委員会の分析を行った先行研究はあるが、ロールズの重なり合う合意に関連して、生命倫理委員会では、どのようにして研究倫理の三原則(人格尊重、恩恵、正義)が合意され、その後、政府指針になったのかという歴史プロセスを分析した研究は少ない。そのため、本研究は、倫理学や社会学の理論研究に基づいて、米国の生命倫理委員会の倫理原則や1991年のコモン・ルールについて詳細な事例研究を行い、ロールズの重なり合う合意を検証する。今回の研究助成では、史料の文献調査や当時のスタッフらへのインタビュー調査を実施し、主に事例分析を行うことを目指している。

夏目賢一「日本における技術者倫理導入の歴史研究」

本研究の目的は、1990年代後半に日本で「技術者倫理」の導入が進んだ本質的な要因を、その経緯の歴史的な調査・分析によって明らかにしていくことである。

この導入の要因として、従来は1995年のWTO設立など経済のグローバル化にともなうエンジニアリング・サービスの国際的な質保証(技術士制度の改革やJABEEの設立)による技術者倫理の義務化、あるいは1995年以降の事件・事故(例えばもんじゅやJCOの事故)原因としての職業倫理の問題化などがあげられてきた。しかし、これらの説明は体系的な調査に基づいておらず、当時の顕著な出来事を関連づけた印象論に近いものであり、本質的な要因を十分に評価できていない可能性が高かった。

そこで、本研究では次のようなテーマを設定して歴史的な分析を進め、論文として発表することを計画した。

  1. 1990年代の日本技術士会における技術者倫理の展開
  2. 日本の学術団体における倫理規程の導入
  3. 1980年代後半からの工学教育改革とJABEEの設立
  4. 1980-90年代前半までの技術・工学に関する「倫理」

すなわち、JABEE設立へと続く大学(工学)教育改革やAPECエンジニア制度の導入・展開と技術者倫理の導入との影響関係を明らかにするとともに、従来混同されがちであった学術団体と職能団体の倫理規程を歴史的に整理して90年代における学術界の質的な転換と倫理との関係を明らかにし、さらに、90年代後半以降の技術者倫理と90年代前半までの科学技術倫理との質的な違いを明らかにしていきたい。これらのテーマに関する基本的な調査(文献調査やインタビュー調査)はこれまでにもかなり進めてきたが、今後はそれにさらなる詳細な調査と分析を加えながら、論文として発表していくことを目標としている。

なお、財界からの影響や、1990年代の社会一般の認識の傾向や変化などについても分析を進める必要がある。これらは基本的な調査もまだ十分に進められていないが、上記と並行して可能な限り調査と分析を進めていきたい。

実践賞

八木絵香「ポスト3・11の科学技術と社会 ─新たなる展開に向けて」

2013年2月、東日本大震災以降の科学技術と社会とのありかたについて、改めて根本に立ち戻って考えていくことが必要であるとの問題意識から「ポスト3・11の科学と政治(中村征樹編・ナカニシヤ出版)」を上梓した。

この著書では、東日本大震災をめぐるさまざまな時局的な話題を取り上げた。しかし一方で著者らは、この度の震災で浮き彫りになった問題の多くは、一つ一つを取ってみるならば、必ずしもこの震災に限定されるべき問題だとも、また今回新しく出てきた問題であるとも考えていない。むしろそれらは、震災以前よりあった問題群である。そして、著者らが執筆を通じて至った共通認識は、今回の震災を通じて改めて見えてきた課題や問題の構図を描き出すことにより、広範囲に及ぶ問題に対して腰を据えて継続的に取り組んでいくこと、そのものの重要性である。また本書は、東日本大震災をめぐる諸問題への科学技術社会論分野からのアプローチという側面をもつ。その意味で、東日本大震災後に申請者らに与えられた「科学技術社会論という学問分野は、東日本大震災をめぐる諸問題へいかに寄与することができるのか」という問いに対する応答も、この本の中には含まれている。

以上のような問題意識から、申請者らは、「ポスト3・11の科学と政治」の続編を刊行するために、継続的な研究会を開催する予定である。それらの討議を通じて、東日本大震災をめぐるさまざまな問題に対して、科学をめぐる政治(ポリティクス)という視点からアプローチすることにより、問題の構図・構造を改めて浮き彫りにし、科学技術社会論における新たなフレームワークと役割について模索することを試みる。

受賞者 研究経過報告

優秀賞
「科学技術社会論への倫理的クリティカルシンキングの導入」
伊勢田哲治(京都大学)

成果概要

受賞時の研究計画でも述べたように、本研究は、哲学的倫理学の知見が科学技術社会論に、具体的には科学技術をめぐる意思決定のための論争に対して、どのように貢献できるかを考えることを目的として行ってきた。倫理学の知見のうち、そうした形で応用できる部分を本研究では倫理的クリティカルシンキングと呼ぶ。その言葉を用いるなら、本研究では科学技術社会論における倫理的クリティカルシンキングの可能性を模索してきた。具体的には、倫理学における文献、リスク論における文献、および低線量被曝やライフサイクルアセスメントをめぐるさまざまな言説の調査を行ってきた。また、日本倫理学会では「リスクの倫理学的考察」と題する主題別討議をオーガナイズし、日本リスク研究会では京都大学リスク研究ネットワーク企画のポスターセッションに参加して、リスクについての認知と倫理学的な視点がどう関わるかについて知見や意見の交換を行った。

論文[1]およびそれをもととした口頭発表[2]では、リスクのコミュニケーションにおいて「副次効果論」が果たす役割を考察した。発表後の考察なども踏まえながら、論点をまとめる。副次効果論とは、非帰結主義的な倫理学で強調される考え方であり、ある結果を意図して行為した結果引き起こした場合と、別の意図をもって行為しながら副次効果としてその結果が生じた場合(とりわけ途中に別の行為者が介在している場合)では倫理的な評価が異なる、という立場である。たとえば、A先生がB君をテストで不合格にしたことが原因でB君はむしゃくしゃして学校のものを壊してしまったとする。また、A先生は「不合格にしたらB君はそれくらいやりそうだな」とは思っていたとする。この場合、A先生は学校の器物を壊そうと思って壊したわけではなく、またB君を不合格にしたこと自体どこにもとがめられるべき要素がないが、A先生の行為が原因となって器物の損壊という結果が生じたのもまた事実である。帰結主義では結果が評価の基準になるので、自分で壊したのであれ間接的に損壊を引き起こしたのであれA先生の行為はおなじように評価されることになるが、副次効果論をとるならば、自分で壊したのと間接的な損壊ではA先生の責任はまったく異なる。

リスクの評価においてもこの副次効果論が影響している可能性はある。事故によって発生した人為的な放射線への曝露と環境中にもとから存在する自然放射線への曝露を比較して論じる(たとえば食物にもともと含まれているカリウムによる放射線量と、事故によって発生したセシウムによる放射線量を比較し、後者は現状でほとんど心配ないと論じる)ことに対して、そうした比較そのものを批判する議論がしばしば見受けられる。しかし、なぜその比較に反発するのかがきちんと説明できているように見える立論はきわめて少ない。無理に説明しようとして、自然放射線と人工放射線は性質が異なるといった主張を行い、かえって傷を深くしているように見える例も多い。しかし、そうした論者はもしかしたら自分の反発が副次効果論に根ざしていることを自覚できていないためにうまく自分の立場を説明できていないのかもしれない。自然放射線への曝露はあくまで副次効果であり、だれかが意図して行った行為がそれを引き起こしているわけではない。これに対して原子力発電所の事故は、政府や東電の歴代の責任者たちが安全対策を怠ったことの直接の結果であり、副次効果とはいえない。

副次効果論は偏見やバイアスとして簡単に切って捨てるにはあまりにも広く受け入れられている道徳的直観であり、むしろ一つの価値論として社会的意思決定においては尊重されるべきであろう。そして、そうした価値論の存在をきちんと意識しながらリスクについてのコミュニケーションや社会的意思決定を行うことが倫理的クリティカルシンキングの体現となるだろう。

発表[3]においてはライフサイクルアセスメントと呼ばれる環境負荷・環境リスク評価の手法の中で、価値論にまつわる問題がどう処理されているかを検討した。これも発表後の討論なども踏まえながら論点をまとめる。検討したのは日本で開発されたLIME2と呼ばれる評価手法である。さまざまな環境負荷は、この手法では人間健康、社会資産、生物多様性、一次生産という四つの「エンドポイント」にまとめられ、この4つの間の重み付けについてコンジョイント分析を適用して統合化が行われる。コンジョイント分析は一般の人が4つのそれぞれをどのくらい評価するかを、政策に対する出費の意志を質問することで確かめるというものである。専門家だけが判断するよりもより正統性のある手法が選ばれているという評価は可能である。しかし、エンドポイントの選定の段階で特定の価値論へのコミットメントが強すぎるという批判も可能である。副次効果論ももちろん考慮されていないし、より定番の批判としては公平さの視点が欠けていることや、環境の価値を還元主義的にとらえていることなどが挙げられる。ただ、そうした批判があまり影響力を持ってこなかったのは、倫理学の側にも問題があるのではないか、という反省もこの発表から得られた。倫理学の諸理論が互いに勝手なことを言い合っている状況では、倫理学からの批判に対して「みんな言っていることが矛盾していて誰に従ったらいいか分からない」と返されるのみである。倫理学の中における多様な価値論の存在をどう処理するのか、倫理学という研究領域自体が、自らに批判的な検討をむけるべきではないかと考えられる。これについては今後の検討課題であるが、倫理学自身が倫理学の使い方を提案する努力をしていくことが必要であろう。

発表[4]では、リスク問題に関わりうる非帰結主義的価値論の別の例として、カール・クレイナーの議論を検討した。クレイナーはトム・スキャンロンの社会契約説を下敷きに、「だれか一人が理にかなった(reasonable)理由で拒絶するような仕方で社会の他のメンバーはリスクを発生させてはならない。」という契約説的な判断基準を提案する。この基準を採用するならば、単なるリスクの大きさだけでなく、誰が利益を受け、誰がもっとも大きなリスクを引き受けるのか、誰がリスクを発生させ、誰が受容可能と判断したのかなどが「理にかなった判断」の材料となりうる。こうした契約説の枠組みは事前規制の問題については有効だが、事後対策における意見の食い違いをどう説明するかという問題が残る。すなわち、低線量被曝などのリスクファクターが発生してしまったあとでそれをなお自然の被爆や他のリスクファクターと区別したい気持ちは契約説で扱えるかというのは疑問である。また、スキャンロン流の基準はこのままでは非常に恣意的である。

同じ発表において、非帰結主義的な価値論の候補として、日本的な「けがれ」をベースとした価値論が関わっている可能性も考察した。契約説が事後対策に使えないというのはすでにふれたが、上で検討した副次効果論も、事故による低線量被曝を批判するときに自然放射線と比較しない理由としては意味をなすが、責任追及と別に具体的にどのリスクをどれだけ避けるかというリスク管理でまでこの区別を維持する理由になるとは考えにくい。一つの可能性としては、だれかの悪事の結果生じたものはそのもの自体にも「悪さ」がついてまわる、というような一種の「けがれの伝播」のような考え方が働いている可能性がある。これを一つの価値論として定式化できるか、また定式化したときにそれがどのくらい説得力を持つかはまだ今後の課題である。しかし、「けがれの伝播」が一種の価値論であるならば、それは、「放射線障害は伝染する」といった迷信的な思考とは区別されるべきである。事実関係についての信念は反例を示すことで一種の論駁ができるが、価値論に対しては反例は意味を持たない。むしろ、「けがれの伝播」のような価値観を持つことがわれわれの他の価値観(たとえば幸福や正義を重視する価値観)と衝突することを示すなどして、価値論としての合理性を批判する必要がある。リスクに関する意思決定において、通常の市民社会の価値論と異質な価値論は、それを持っている本人にすら見逃されている可能性が多分にある。それを明るみに出していくことが今後の課題となる。

論文

[1]「リスクとそのコミュニケーションについて哲学者が言えること」『日本安全学教育研究会誌』vol.7 45-48ページ、2014年8月   口頭発表
[2]「リスクとそのコミュニケーションについて哲学者が言えること」 第9回日本安全学教育研究会、京都大学にて、2014年8月23日
[3]「専門家は価値についても専門家か?エンドポイントの倫理学に向けて」日本倫理学会第65回大会主題別討議「リスクの倫理学的考察」一橋大学にて、2014年10月4日
[4]「非帰結主義的倫理学とリスク評価」(ポスター発表) 日本リスク研究学会第27回年次大会 (京都大学リスク研究ネットワーク協賛企画)、京都大学にて、2014年11月29-30日


奨励賞
重なり合う合意の事例研究――生命倫理委員会の歴史

額賀淑郎(上智大学生命倫理研究所)

本研究の目標は、政治哲学者ジョン・ロールズの「重なり合う合意」という分析モデルを検証するため、米国の生命倫理委員会の事例研究を行うことである。ロー ルズは後期の研究において「重なり合う合意」に基づいた正義構想を論じた。「重なり合う合意」とは、立憲民主社会において自由で平等な市民の多様な価値観 が、それぞれの視点に基づく倫理原則として一致し、その結果、世代を超えた長期の正義構想が可能になることを意味する。重なり合う合意は、倫理学の仮説モ デルであるが、科学技術社会論において、その具体例を検証した研究は少ない。

研究助成に基づく本研究プロジェクトでは、主に1) 倫理学や社会学の参考文献に基づき、広義の重複合意モデルという分析モデルを再構成する理論研究、2) 米国の生命倫理委員会の倫理原則についての詳細な事例研究、を行った。

まず、1)の課題については、事例研究の分析フレームを構築するため、ロールズの重なり合う合意を分析し「広義の重複合意モデル」という理念型を再構成し た。広義の重複合意モデルが成立する条件を分析した結果、①市民代表者(研究者ら)の構成が価値観の多様性に基づいていること、②市民代表者が公平な機会 均等を重視すること、③市民代表者が利益相反を回避すること、④市民代表者が、理論、基本原則、データ間の整合性を検証するなど、特定の手続きを用いるこ と、⑤市民代表者が、それぞれの視点や理由に基づき、共有価値(基本原則)の一致を行うこと、⑥共有価値(基本原則)が長期間において安定していること、 という条件が必要である可能性を明らかにした。

次に、2)の課題については、2014年2月15日―3月6日まで米国でインタビュー調査とアーカ イブ調査を実施した。まず、数名のインタビュー対象者のリストを作成し、その対象者に連絡を行った。その結果、2名(当時のスタッフと委員)に対して専門 家インタビューを実施することができた。インタビュー調査によれば、国家委員会では利益相反が回避され「広義の重複合意モデル」の条件と一致する貴重な データを得ることができた。また、国立公文書図書館やジョージタウン大学の図書館においてアーカイブ資料を収集した。これまでの先行研究によれば、研究倫 理の基本原則は主に国家委員会の第15回会議以降に開始されたと示されていたが、今回のアーカイブ調査に基づくと、第5回会議において、その構想はすでに 議論され、大きな影響があったことを明らかにした。

今回の研究助成は、参考文献の購入、米国出張、アーカイブ資料収集などの費用として用いた。上 記の研究成果の一部については、以下の学会において、それぞれの課題内容を発表した。今後はさらなる分析や調査を実施し、研究成果をまとめた論文等を発表 するつもりである。最後に、貴重な研究助成を授与して頂き、重ねてお礼を述べたいと思います。

学会発表
  • 2014年9月6日「ロールズの重なり合う合意」日本社会学理論学会, 関西学院大学
  • 2014年9月28日「重なり合う合意の事例研究」科学社会学会, 東京大学

 奨励賞
「日本における技術者倫理導入の歴史的研究」

夏目賢一(金沢工業大学)

私は地方在住で、研究に必要な聞き取り調査、資料調査、学会・研究会での発表・情報交換などを進めていくためには出張を繰り返す必要があり、このことが経済的・時間的そして体力的・精神的な負担にもなっていました。2013年度の奨励賞を授与いただいたことは、経済的負担の軽減に加えて精神的な励みにもなり、大変助かりました。この結果、研究を着実に進めることができ、2015年4月末の時点で以下の研究成果をあげることができています。

成果概要

奨励賞に応募した時点で、以下の4点を研究計画としてあげました。

  1. 1990年代の日本技術士会における技術者倫理の展開
  2. 日本の学術団体における倫理規程の導入
  3. 1980年代後半からの工学教育改革とJABEEの設立
  4. 1980-90年代前半までの技術・工学に関する「倫理」

計画1の成果は論文bとcとして出版することができ、日本技術士会からは招待講演gとhの依頼もいただいてその成果の共有と考察のさらなる進展に努めました。計画2の学術団体の倫理規程については、論文cで1938年に土木学会の倫理規程について比較分析しましたが、20世紀後半の事例については現在調査を進めており、これから論文にまとめる予定です。計画3については技術者資格との関係において論文bで調査・分析を進めました。ただし、1980年代における高等教育の質的転回については当時の日米貿易摩擦や科学社会学の展開などと関連づけて分析する必要性を認識するようになり、これについて東京大学の先端科学技術研究センターの設立を手掛かりとして調査・分析を進めて口頭発表dとして報告しました。計画4については、まずはこの年代の社会的関心の変化を把握するために新聞記事を分析し、論文aにまとめました。

以上のように、当初の目的に向けて研究は着実に進行できていますが、最終的な目標である「日本における技術者倫理導入」過程の包括的な理解には、まだ到達できていません。そのため、今後はこの目標に向けてさらなる研究調査・分析を進めていく予定です。

学術論文
  1. 夏目賢一「1990年代日本の「技術者倫理」普及過程に関する新聞記事数統計」『工学教育』(査読済み掲載決定)
  2. 夏目賢一「1990年代における技術士の国際整合性問題と技術者倫理―日米二国間からAPEC多国間へ―」『技術と文明』第19巻2号,2015年,pp. 17-41.
  3. 夏目賢一「初期の日本技術士会における二つの倫理規程―技術士服務要綱の制定から技術士業務倫理要綱の制定へ―」『技術と文明』第19巻1号,2014年,pp. 1-20.
学会口頭発表
  1. d.夏目賢一「東大先端研の設立理念における大学教員の主体性―東大紛争にともなう工学部改革論との相違とその歴史的要因―」科学技術社会論学会第13回年次研究大会(大阪大学)2014年11月15日.
  2. e.夏目賢一「日本の技術者倫理教育とグローバル化の歴史分析―1990年代後半の事例研究から導かれる諸提言―」日本工学教育協会62回年次大会(広島大学)2014年8月29日.
  3. f.夏目賢一「日本技術士会の倫理規程と技術者の社会的地位の問題」日本産業技術史学会2014年度年会(青山学院女子短期大学)2014年6月21日.
招待講演
  1. .夏目賢一,日本技術士会・第3回技術者倫理ワークショップ(富山国際会議場),2015年10月1日.(予定)
  2. h.夏目賢一「グローバル化と技術者倫理」日本技術士会・埼玉県支部CPD講演会(埼玉・新都心ビジネス交流プラザ),2014年12月13日.

実践賞
ポスト3・11の科学技術と社会 ─新たなる展開に向けて

八木絵香(研究代表者・大阪大学),中村征樹(大阪大学),神里達博(大阪大学),調麻佐志(東京工業大学),田中幹人(早稲田大学),標葉隆馬(総合研究大学院大学),平川秀幸(大阪大学)

東日本大震災と続く福島第一原子力発電所事故は、言うまでもなく今もなおも現在進行形の問題である。また、申請段階でも指摘したとおり現在、浮き彫りになっている問題の多くは、一つ一つを取ってみるならば、必ずしもこの震災に限定されるべき問題でも、また今回新しく出てきた問題でなく、むしろそれらは、震災以前よりあった問題群である。申請者らは、これらの問題群やその構図を描き出すことにより、広範囲に及ぶ問題に対して腰を据えて継続的に取り組んでいくことを目的として、「ポスト3・11の科学技術社会論」研究会を設立し、継続的に活動を行っている。
2013年11月には、サイエンスアゴラ「みんなでつくる7連続ワークショップ」において、「ポスト3・11の科学コミュニケーションを問う」と題した対話イベントを実施した。また、その他にも共同研究者内での研究会に加えて、計3回のゲストをお招きしての研究会を行った。講演者は以下の通りである。

第1回(2014年5月23日 於 オフィス東京)

菊池克彦氏(福島民友新聞社・論説委員)と山地美紗子氏    (株式会社ラジオ福島アナウンサー)をお招きして研究会を開催した。具体的には、日本大震災と福島原子力発電所事故の被災地域にある課題のうち、①地元メディアの視点から、被災地外ではあまり関心を持たれていないと感じられること、②非常に重要でありつつも、さまざまな理由により、行政等の支援からこぼれ落ちている課題、③取材をしていて重要だと感じつつも、被災者自らが「語りにくい」と感じる内容等について話題提供を頂き、議論を行った。

第2回(2014年6月13日 於 大阪大学豊中キャンパス大阪大学会館)

東京電力株式会社の社員A氏(個人としての参加のため匿名)をお招きして研究会を開催した。具体的には、①福島第一原子力発電所の事故以降(これまで)の自身、および東京電力内での変化について、②東京電力の社員としては重要だと感じつつも、東京電力自らが「語りにくい」と感じる内容について等について話題提供を頂き、議論を行った。

第3回(2014年7月15日 於 大阪大学豊中キャンパススチューデントコモンズ)

津久井進氏(弁護士)をお招きして研究会を開催した。具体的には、阪神大震災以降の災害復興や被害者支援に関わり続けてこられた経験をもとに、①全国各地で展開されている福島第一原子力発電所をめぐる訴訟の概況、②特に関西地区での活動状況、③時間が経過する中で新しく生まれてきた、もしくは今後生まれてくると予想される課題等について話題提供を頂き、議論を行った。

これらの議論を通じて、福島の地元メディアと中央メディアやソーシャルメディアにおける関心の差異、放射線を巡る「語り」を巡る葛藤や科学技術コミュニケーション上の課題、東京電力における組織と現場の課題、被災者支援ならびに被災地復興を巡る法制度上の課題などが明らかになった。
現在は、新規に2014年度サントリー文化財団「人文科学、社会科学に関する学際的グループ研究助成(3.11をめぐる「知識生産」と「社会実践」の架橋~議題構築に注目して 研究代表者・標葉隆馬)より支援をえて、「ポスト3・11の科学と政治」の続編の刊行にむけた検討を進めている。

研究業績リスト(主なものを抜粋)
  • 神里達博.2014.”Creating a Hub for ELSI/TA Education, Research and Implementation in Japan” pp. 117-122. (Eds.: TOMA MICHALEK, LENKA HEBAKOVA, LEONHARD HENNEN, CONSTANZE SCHERZ, LINDA NIERLING AND JULIA HAHN, Author: Tatsuhiro KAMISATO, Mitsuaki HOSONO) Technology Assessment and Policy Areas of Great Transitions,Prague: Technology Centre ASCR.2014年11月.
  • 神里達博.2014.社会の中の科学者のすがたを等身大に描き出す報道を,『Journalism』, Vol. 291,62-69頁,2014年8月.
  • 標葉隆馬,八木絵香.2013.東日本大震災をめぐる関心の所在 パイロット分析,科学技術社会論学会年次研究大会第12回大会,2013年11月.
  • 標葉隆馬,八木絵香,田中幹人.2014. 3.11をめぐる関心事の違いー地域別比較の観点から,日本災害情報学会第16回大会,2014年10月.
  • Ryuma Shineha, Mikihito Tanaka.2014. “Mind the Gap: 3.11 and the Information Vulnerable” The Asia-Pacific Journal, Vol. 12, Issue 7, No. 4, February 17
  • 平川秀幸.2014.「BSEリスク評価との比較から見える再稼働問題の重要論点」,『科学』2014年9月号(Vol. 84, No. 9),940-941頁.
  • 平川秀幸.2014.「科学的助言のパラダイム・シフト─責任あるイノベーション,ポスト・ノーマルサイエンス,エコシステム」,『科学』2014年2月号(Vol. 84,No. 2,特集「科学的助言:科学と行政のあいだ」),195-201頁.
  • Yuko Fujigaki, Mikihito Tanaka, Masashi Shirabe, Hideyuki Hirakawa, Naoyuki Mikami, Shigeo Sugiyama, Masanori Kaji, Tadashi Kobayashi, Minako Kusafuka, Yoshiyuki Hirono 2015. Lessons From
  • Fukushima: Japanese Case Studies on Science, Technology and Society, Springer,
  • 八木絵香.2013.今,必要とされるのは「コミュニケーション」なのか,日本原子力学会誌(Vol.56,No. 3),62-63頁
  • 八木絵香(2015),「学会の知を社会で活かすために」『日本原子力学会誌』日本原子力学会誌(Vol.57,No. 4), 4-5頁

以上